言葉に憑かれた人たち - 人工言語の地平から 8

 ルーセルの言語実験と埋め込まれた世界

 細胞生物学者の永田和宏は、新年歌会始の選者も務める現代を代表する歌人だが、著書『喩と読者』(而立書房)のなかで、「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」という芭蕉の俳句を取り上げて、この句の斬新さを巧みに分析している。
 この句の語法は破格であり、「鐘消えて」はかろうじて「鐘の音が消えて」と解釈できるものの、「花の香は撞く」という統辞法は日本語にはない。ふつうならば「鐘撞いて花の香消ゆる夕べかな」となるはずである。永田が引用している尼ヶ崎彬の言うように、「統辞規則からの逸脱によって、各語句は『ことはり』のコンテクストから解放され、可能な限りのイメージを孕んだまま、多義性の中を漂う」ことになる。
 ここでいう「ことはり」とは現実の機序であり、私たちがふつう「現実」と認識している世界イメージである。「鐘撞いて花の香消ゆる夕べかな」ならその意味は現実の機序と整合的である。確かに鐘は「撞く」もので、花の香は「消える」ものだ。しかし芭蕉のオリジナルの句のように破格の統辞法を用いることによって、鐘そのものがふっと消えるような、花の濃密な香が鐘を撞くような、不思議な心象世界が現われる。意味の脈絡が破格の統辞法によって断ち切られることによって、読者の日常的な認識形態に亀裂が生じる。これによって読者は、あるはずはなくともあり得たかも知れない不在の経験を呼び起こされる。永田はこのように分析している。
 詩人か小説家かの別を問わず、文学者はこのような意味においての「世界認識の更新」をめざしているにちがいない。その企ての手段として用いられるのは言うまでもなく言語である。しかし芭蕉が試みた破格な統辞法のような言語の革新的な用法が、なぜ世界認識を更新するのだろうか。この問題はかんたんなように見えて、はっきり答えるのはなかなかむずかしい。

『エンベディング』の世界
 イアン・ワトスンの『エンベディング』(国書刊行会)は、言語と現実認識の関係そのものをテーマにした珍しい小説である。ワトスンは一九四三年生まれのイギリスの小説家で、第一作の本書で評判になった。他にも著作は多く、スタンリー・キューブリック監督のために『A.I』の映画用ストーリーを執筆したこともあり、後にスピルバーグ監督によって映画化されている。
 『エンベディング』の舞台はイギリスの田舎町にある謎の研究所。表向きは言語障害を持つ児童の研究と訓練のための施設ということになっているが、実は地下実験室で人目をはばかる研究が秘かに行なわれている。世界各地から6人の孤児を集め、三つの実験施設でその成長過程を観察しているのだ。その三つの実験施設には、それぞれ「論理世界」「エイリアン世界」「埋め込み世界」という名前がつけられている。子供たちは外界から隔離され、実験室ごとに特別に設計された人工言語で育てられている。子供たちの世話をする係員は、コンピュータに接続されたマイクを内蔵したマスクを装着しており、彼らが話す英語はコンピュータによって人工言語に変換されて子供たちに聞こえるという手の込みようである。「論理世界」実験室では高度に論理的な人工言語を、「エイリアン世界」実験室ではオルタナティブな現実状態を反映する幻想的な言語を、そして主人公クリス・ソールの担当している「埋め込み世界」実験室では高度な埋め込み言語が話されている。同時に子供たちには脳の発達を異常に促進する薬物が投与されている。まっさらな心を持つ子供がふつうとは異なる言語環境にさらされたとき、どのように現実認識を持つようになるかを知ることがこの実験の目的なのである。

白紙の心と言語のくびき
 赤ん坊を完全に外界から隔離して育てるとどうなるかというのは、実はワトソンが考案した実験ではない。ヨーロッパ世界では古代から同じような試みがあったことが断片的に伝承されている。
 ギリシアの歴史家ヘロドトスの伝えるところによれば、紀元前七世紀のエジプト王プサメティコス一世は、生まれたばかりの二人の赤ん坊を羊の群に混ぜて言葉をかけずに育て、どんな言語を話すようになるかを調べるよう命じた。赤ん坊が最初に発した単語は bekos で、これは紀元前七・八世紀の小アジアで話されていたプリュギア語でパンを意味する。ここからプサメティコス一世は、プリュギア語を最も古い人間の言葉であるとしたという。
 またイギリスの歴史家ロバート・リンゼイの史書によると、十五世紀のスコットランド王ジェームズ四世は、赤ん坊を聾唖者に世話をさせ、一切話しかけることを禁じたところ、子供が最初に話した言葉はヘブライ語であったと伝えられている。
 フランチェスコ会修道士パルマのサリンベネの年代記によれば、十三世紀の神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世もまた、同じ疑問に取り憑かれた人であった。乳母に言葉をかけることを禁じて子供を育てさせたが、話すようになる前に子供は全員死んでしまったという。
 これらの多分に伝説じみた古代・中世の実験は、「人間の最も古い言語は何か」という始源への遡及の渇望が、人間の心に深く根ざしていることを示している。
 ワトソンが『エンベディング』で描く実験の意図はこれとは少しちがう。それは言語と現実認識の関係という、これまたヨーロッパ世界では古くて新しいもうひとつの課題に深く関係している。
 私たちは「犬」という単語を持っている。それは現実世界に「イヌ」という動物種が存在しているからである。また「猫」という単語を持っているのもまた「ネコ」という動物種が存在するという事実に対応する。「犬」と「猫」というふたつの語彙が言語において区別されているのは、現実世界において「イヌ」と「ネコ」という二種類の動物種が区別されているからである。また「鳥が飛ぶ」「犬が噛みつく」という主語・述語文があるのは、「鳥」や「犬」が「飛ぶ」「噛みつく」という行為動詞の主体として認識されているからに他ならない。このように言語の語彙や統辞法は、私たちが現実世界について持っている認識を反映している。
 この考え方を押し進めると、「言語の仕組みは現実認識を表わす」という仮説が浮上する。私たちは成長の過程で、日本語なり英語なりの既存の言語を内在化する。それと平行して日本語や英語の構造として結実している現実認識を学ぶ。言語を十分に習得すると、今度は逆にその言語に結晶化している現実認識に囚われるようになり、それ以外の認識形態ができなくなってしまうと考える人もいる。「言語の仕組みが現実認識を規定する」という仮説である。
 だからワトソンが『エンベディング』で描いた実験では、白紙の心を持って生まれて来た子供に人工言語だけを教えて育てたとき、果たしてどのような現実認識を示すようになるかということが、言語と心の関係を考えるうえで大きな問題となるのである。

埋め込みと階梯
 『エンベディング』は一種のSFなのだが、多くのSFがそうであるように、その背景に理論的支柱がある。『エンベディング』の支柱のひとつはチョムスキーの生成文法である。チョムスキーは単に言語の構造だけを研究対象としたのではなく、言語と人間の心の関係を言語学の課題として前面に押し出した。これがおそらくワトソンの興味を捉えたのだろう。主人公クリス・ソールが担当する「埋め込み」の部屋で話されているのは、高度な埋め込み構造を持つ言語だとされている。この「埋め込み」は英語でembedding といい、これが本書のタイトルの由来だが、もともとはチョムスキーの用語である。
 チョムスキーのアイデアは、私たちの話している言語は一見たいへん複雑な構造を持っているように見えるが、実は少数の基本的規則が何度も循環的に適用されることで、そのような複雑な構造を実現しているのだというものである。これを言語の「再帰性」と呼ぶ。
 例えば日本語には [連体修飾語]+[体言] で、大きなひとつの体言を作るという規則がある。[本] に [赤い] をくっつけて、[赤い本] ができる。こうしてできた大きな体言にもうひとつ修飾語をつけて、[大きな [赤い本] ] ができる。またくっつけて [長細い [大きな [赤い本] ] ] が得られる。適用している規則は単純なものだが、循環的に何度も適用することで、「君が昨日読んだと言っているそこにある大きな赤い本」のように、非常に複雑な構造を得ることができる。この操作が「埋め込み」に他ならない。
 規則の循環的適用はときにたいへん深い埋め込みを可能にする。John owned a cat that killed a rat that ate cheese that was rotten. 「ジョンは腐っていたチーズを食べたネズミを殺したネコを飼っていた」という文では、元になる John owned a cat という文に、that killed a rat、that ate cheese、that was rotten という三つの関係節が順番に埋め込まれている。この三つの関係節は順番に右へ右へと伸びていて、英語の標準的構造である右枝分かれ構造をなしているので、意味を理解するのがそれほどむずかしくはない。
 ところが、「ジョンが飼っているネコが殺したネズミが食べたチーズは腐っていた」という日本語の文を英語に直訳しようとすると、The cheese that the rat that the cat that John owned killed ate was rotten. となり、ほとんど理解できなくなってしまう。これは元になる The cheese was rotten. 「チーズは腐っていた」という文の真ん中を断ち切るようにして、that the rat ノ ate「ネズミが食べた」, that the cat ノ killed 「ネコが殺した」、that John owned 「ジョンが飼っていた」という関係節が次々と埋め込まれているためである。 ロシアの民芸品のマトリョーシュカのように、中が空洞の人形を開けるとその中に人形があり、それを開けるとまた人形がありと続くようなものだ。このような構造を「自己埋め込み」と呼ぶ。自己埋め込み構造は理解がとても困難であり、私たちの話している自然言語はこのような構造を避けるようにできている。
 クリス・ソールの「埋め込み」の部屋で子供たちに教えられているのは、まさにこの自己埋め込み構造を持った人工言語である。私たちが話している言葉が避けている構造をあえて持たせた言語を教えると、子供たちはどのような現実認識を持つようになるか。そんな言語を内在化しても、私たちと同じ現実認識を持つようになるのだろうか。それともまったく異なる新しい現実認識に至るのだろうか。これがソールの試みている悪魔的実験なのだ。

レーモン・ルーセルの埋め込み言語世界
 『エンベディング』にはもうひとつ発想の源がある。それはフランスの小説家レーモン・ルーセル (一八七七年〜一九三三年) である。ルーセルはその作品の特異性と同時に奇行でも知られており、アンドレ・ブルトンら当時のシュルレアリストに熱狂的に支持されたが、世間からは評価されず、シチリア島のパレルモで服毒自殺したという、いまだに謎の多い文学者である。ルーセルの研究書としては、岡谷公二『レーモン・ルーセルの謎』(国書刊行会)がよい手引きとなる。
 裕福な家庭に生まれたルーセルは、旅行をしても特別仕立の馬車のなかに閉じこもり一切外を見ずに読書していたという逸話が示すように、現実を否認してただ想像力のみによって文学作品を作ろうとしたと言われている。韻文でできた彼の小説の創作過程は、『私はいかにして或る種の本を書いたか』で種明かしされている。それによるとある作品は、 Les lettres du blanc sur les bandes du vieux billard. 「古びた撞球台のクッションに書かれた白墨の文字」という一行で始まり、Les lettres du blanc sur les bandes du vieux pillard. 「年老いた盗賊についての白人の手紙」という一行で終わる。見てわかるように、ふたつの文は billard と pillard の b と p が異なるだけで後はまったく同じである。ルーセルはまず最初と最後のこの二行を書き、そのあいだを言葉の多義性と連想関係のみを頼りとして埋めてゆくという方法で創作した。岡谷の言うとおり、これは「ひたすら言葉だけにこだわり、言葉から言葉を紡ぎ出してゆく方法」であり「言葉の綱渡り」と言ってよい。
 このような現実拒否と言葉に対する呪物的執着が高じると、「言葉による世界の変容」という観念に到達する。ルーセルと親交のあったミシェル・レリスの言葉を借りれば、「言葉を詩的に用いることによって、人間はすべてを変容させる能力を持つ」ということになる。これはすでに呪術的思考と言ってよい。
 おそらくこのような希求のもとに書かれたのがルーセル最後の作品『新アフリカの印象』だろう。この作品はずっと昔に粟津則雄によって一部が邦訳されたことがあるが、どうやって訳したのか想像もつかない。それほど奇妙で難解な作品なのである。全体は平韻を踏む十二音綴の韻文詩なのだが、読み進むとカッコが現われ、次に二重カッコさらに三重カッコと次々に詩句が埋め込まれてゆくという、めまいのするような構造をなしているのである。カッコによって詩句は中断され、それまでの詩句の意味は宙吊りにされ、読者は階段を一階分下りるようにしてカッコで閉じられた新たな詩句の世界に誘われる。ようやく頭の中で意味が形を成したかと思うと、またカッコが現われて意味は宙吊りになり、さらに下の階へと誘導される。詩句の意味はただでさえ多義的でいくつかの意味のあいだを浮遊するのだが、そこにカッコによる意味の宙吊りが加わることで、意味の浮遊感が極限にまで押し進められる。
 ほんとうはここで実物をお目にかけたいところなのだが、とても私の非力では翻訳しかねる代物なのでご勘弁いだきたい。
 『エンベディング』の主人公クリス・ソールはルーセルのこの詩法にかねてより魅了されている。ルーセルの詩法が新しい現実認識を生み出すのではないかと考えているからである。ソールが「埋め込み」の部屋で自己埋め込み構造を持つ人工言語を子供たちに教えようというアイデアを得たのは、ルーセルの直接の影響下においてなのである。ルーセルが韻文詩のなかで試みたことを、コンピュータと向精神薬物の力を借りて、子供たちの白紙の脳のなかで実現しようとしているのだ。
 『エンベディング』にはクリス・ソールの実験と平行して進行するもうひとつの物語がある。ソールの旧友で文化人類学者ピエールは、アマゾン地方の奥地に居住するゼマホア族という架空の部族の呪術を研究している。ゼマホア族はふだんはゼマホアAという言葉を話している。しかし部族のリーダーである呪術師が宗教的儀礼である種のキノコを食べてトランス状態になると、ゼマホアBという言葉を話すようになるのだが、このゼマホアBが自己埋め込み構造を持った言語だという設定なのである。ゼマホア族の呪術師は、トランス状態でゼマホアBを話すことによって、ふだん自分たちが囚われている現実認識を脱却して新しい認識に到達し、その力によって今度は現実そのものに変更を加えようとしている。アマゾン地方には大ダム計画が進行していて、彼らの土地は水没の危機にさらされている。呪術師はこの計画を阻止しようとしており、人類学者ピエールはゼマホア族を手助けしようと奮闘している。『エンベディング』の物語にはその後なんと宇宙人が登場し、それをきっかけとしてソールの実験室とゼマホア族を巻き込んでクライマックスへと進行してゆくのだが、ストーリーを追うのはこのくらいにしておこう。

サピア・ウォーフの仮説
 『エンベディング』のおもしろさはヨーロッパ世界において長い歴史を持つ言語思想史を踏まえて、チョムスキーの自己埋め込み構造とルーセルの実験的な詩法とを強引に結びつけて物語に仕立て上げたところにあると言えるだろう。ここでいう言語思想史的な背景とは、言うまでもなく言語と現実の関係、もしくは言語と思考の関係である。これがなければ『エンベディング』は単なる荒唐無稽なお話で終わってしまう。
 人類学者ピエールは主人公ソールに宛てた手紙の中で次のように言う。「われわれの言語はすべて、現実と現実についての考えの間に障壁 ― 大がかりなフィルタ ― を作りあげる。ゼマホアBはぼくがこれまでに出くわした最も真なる言語かもしれない。この言語を操ることでやがて彼らは、存在の完全な意識に到達するかもしれない」
 主人公ソールもまた次のように言う。「現実はものの見方を定めます。完全な外部の観察者なんてものはありません。自分自身の外に出たり、自分の使っている概念の範囲外にあるものを知覚したりすることもできない。われわれはすべてこの(現実)に埋め込まれている」
 このふたつの発言を総合すると次のようになるだろう。「私たちは(現実)に埋め込まれており、それを越えることはできない。私たちの話している言語が私たちの現実認識を規定しているからである」。これは言語学でよく知られたサピア・ウォーフの仮説に他ならない。
 エドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフの二人が別々に示したよく似た考え方を今日「サピア・ウォーフの仮説」と総称しているが、その骨子は次のウォーフからの引用によく示している。

「個々の言語の背景的な言語体系(つまり、その文法)は、単に考えを表明するためだけの再生の手段ではなく、それ自身、考えを形成するものであり、個人の知的活動、すなわち、自分の得た印象を分析したり、自分の蓄えた知識を総合したりするための指針であり、手引きであるということがわかったのである。()われわれは、生まれつき身につけた言語の規定する線にそって自然を分割する。()ここに含まれる規定は絶対的な服従を要求するものである」(池上嘉彦訳『言語・思考・現実』、講談社学術文庫)

 わかりやすく言うと、私たちは言語という色メガネをかけて現象を見て、それを(現実)だと認識しているということになる。
 美空ひばりの唄にもあるように、日本語では「真っ赤な太陽」という。だから絵を描くときには太陽を赤に塗る。しかしフランスでは子供はたいてい太陽を黄色に塗る。また「リンゴのほっぺ」という言い回しがあるように、リンゴは私たちにとっては赤いものである。しかしヨーロッパの絵本ではリンゴはよく緑に塗られている。かくのごとく言語表現と現実とは分ちがたく結びついており、私たちは既成の言語表現に従って現実を認識しているという仮説である。
 『エンベディング』という小説のタイトルには二重の意味があることがわかるだろう。ひとつはチョムスキーの言う文の「埋め込み」であり、もうひとつはわれわれは言語によって(現実)に埋め込まれているという意味である。
 『エンベディング』はこのような言語と認識の関係に関する仮説を踏まえ、埋め込み構造を鍵概念として援用しつつ、新しい言語を創出することによって現実認識を更新するという夢をSF物語にしているのである。このような構想は決して小説家の荒唐無稽な想像ではなく、一七世紀のイギリスとフランスで盛んに行なわれた理想言語計画という哲学運動を遠い源としており、ヨーロッパ思想史のなかで何度も浮上しては挫折し、それでも絶えることなく底深く深層海流のように流れている欲望なのである。
 山田正紀は遺跡から見つかった未知の言語をテーマとした『神狩り』というSF小説を書いている。その言語は論理記号をふたつしか持たず、関係節が十三重に埋め込まれているという「神の言語」だという設定である。「埋め込み」というアイデアは『エンベディング』とよく似ているのだが、ヨーロッパの言語思想史の流れを踏まえていない分だけ、底の浅い小説になっている。
 さて締めくくりとして冒頭にあげた芭蕉の俳句「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」に戻ろう。ここには「鐘が消える」「花の香が撞く」という通常の規範を逸脱した統辞法があり、一句から立ち上がる意味は「鐘撞いて花の香消ゆる夕べかな」というふつうの統辞法に従った句の意味と似ているようで異なる。逸脱的統辞法によって攪乱された意味は、私たちが慣れ親しんだ現実に完全に回収されることなく、新たに浮遊する意味を獲得している。言語という色メガネを完全に外すことはできないが、少しずらしたり角度を変えたりすることによって、世界の見え方=意味をわずかに更新することはできる。芭蕉の句は私たちにそのことを教えてくれるのである。

「すばる」2005年6月号掲載